2008年北京オリンピックの野球競技で、日本代表の一員だったG.G.佐藤選手が、準決勝の韓国戦、3位決定戦の米国戦で失点につながる落球を重ね、マスコミやネットでの誹謗中傷を受けることなりました。その経験をもとに今回、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」に出演し、パリオリンピックでの誹謗中傷の件を語ったことが話題になりました。
ネットでの反応と様子をまとめてみました。
誹謗中傷を受けた際の話
「帰国後は精神的に追い込まれ、コンビニにも行けず、消えてなくなりたいと。母親も外を歩けない」という状態に。特に誹謗中傷について「母親が一番悲しんでいた。自分が言われるのは仕方がないが、母に記者が取材に行ったり、息子がたたかれているのを見るのはつらいと言っていた」と振り返った。
「羽鳥慎一モーニングショー」より
誹謗中傷を受けると本人だけでなく、その周りの方まで影響が出てしまう。このことを自分のせいだと、自分を責めてしまうかもしれませんね。
確かに2008年当時はまだSNSメディアはそれほど有名ではなく、マスコミがニュースに取り上げて話題になっていたかもしれません。私自身はその辺の記憶は曖昧ですが、Xではそういった声が多かったです。
どう乗り越えたか
前向きになっていけたのは、エラーから13年後にかけられた恩師の野村克也さんからの言葉。それは「北京で確かにお前はエラーをした。でもその時の人の記憶に残っているのは星野(仙一氏)とお前だけだ。人の記憶に残ることがどれだけ大変で素晴らしいことか分かるか?お前の勝ちだ。その経験を生かして生きて行きなさい」
「羽鳥慎一モーニングショー」より
数々の名言を残した野村克也さん人を動かす言葉をもつ名監督ですね。
当時はかなりひどいバッシングを受けたと記憶しています。そこを乗り越えて、笑いに変えていることは素晴らしいですが、誰にでも出来るようなことではないと思いますね。
オリンピックのその後
オリンピック翌年の2009年は西武ライオンズで、打率.291・25本塁打・83打点と活躍したが、2010年はケガによって成績が下降し、2011年は若手を起用するという球団方針により、戦力外通告を受ける。
2012年からイタリアンベースボールリーグのフォルティチュード・ボローニャ1953と契約し、42試合の出場で打率.319(リーグ14位)、3本塁打(同13位タイ)、22打点(同23位タイ)、OPS.847(同16位タイ)の成績を残すが、8月21日解雇された。
「プロ野球選手としては十分な生活を送れたため、プロ野球に戻る気はないが、野球との接点まで絶ってしまいたくはない」という理由で、2012年9月26日に、富山県のクラブチームであるロキテクノベースボールクラブへ選手兼コーチとして入団選手として対外試合にも出場した。しかし、西武時代の恩師である伊東が、同年のシーズン終了後にロッテの一軍監督へ就任したことから心境が一変。結局、クラブへの在籍期間は、およそ2か月にとどまった。
伊東からの誘いをきっかけに、「(中学生時代から所属していなかった)地元・千葉県内のチームで野球人生の最期を送れたら最高」という思いに至ったことから、2012年11月にロッテの秋季キャンプへ参加。キャンプ中の入団テストを経て入団を果たすとともに、1年ぶりにNPBへ復帰した。背番号は「48」で、登録名は「G.G.佐藤」。
2013年は、公式戦の開幕を一軍で迎えると、3月30日の対オリックス戦に代打でNPB復帰後初安打を打った。一時は不振で二軍生活を送ったが、8月24日の対楽天戦では、NPB復帰後の一軍初本塁打を辛島航からの満塁本塁打で記録した。レギュラーシーズンでは一軍公式戦で30試合の出場にとどまったが、チームのシーズン3位で迎えたポストシーズンでは、10月23日に楽天とのクライマックスシリーズファイナルステージ第4戦で辛島から3点本塁打を打った。チームはこの本塁打で一時逆転したが、日本シリーズへの進出には至らなかった。
2014年は、一軍公式戦への出場がなく、10月5日に球団から戦力外通告を受け、退団した。
Wikipediaより
オリンピック後はかなり波乱万丈な野球選手生活だったようです。とくにイタリアでの選手生活は珍しいですね。
まとめ
GG佐藤さんのエピソードは話も面白く大変興味深いですが、誹謗中傷を受ける場合は、誰しもがGG佐藤さんのように乗り越えられることではないと思います。SNSによって伝えた言葉が、本人さらには周りの人々を巻き込んで人生を変えてしますような力を持っていますので、使い方を気を付けたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございます。
コメント